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日本のラグビーは大学ラグビーがベース

これはラグビーに限ったことではありませんが、ラグビーも日本では学生の鍛錬の対象として導入されています。日本にラグビーを伝えた人として有名なエドワード・B・クラークは、「夏の後や冬の後の日々に屋外で若者がすることが何もないように見えました。冬の野球はまだ行われておらず若者達は時間と素晴しい屋外の天気を無駄にしてぶらぶらしていたため、彼の生徒達になにか建設的なことを教えたかった」と述べています。クラークがいた慶応大学から始まり、ラグビーは日本の大学の間に瞬く間に広がっていきました。そして明治大学、慶應義塾大学、早稲田大学は日本におけるラグビーの中心となり、慶應と早稲田の対抗戦は1924年から毎年開催されるようになりました。
一方、企業においても、ラグビーが労働者の規律を高めると考え、ラグビー部をもつ実業団が増えていきました。今と違って以前の社会人チームの所属選手は大学卒はほとんどおらず、高校卒のたたき上げの選手ばかりでした。従って、大学でラグビースキルを高めた選手と実業団でラグビースキルを高めた選手が並列関係でいるような状況でした。当然ながら社会人の方が同じチームで長くプレーできますが、大学の強豪校にはラグビーに造詣の深い指導者(監督)が揃っていたため、大学生チームといえどもそのレベルは当時日本屈指でした。そのため、日本選手権が大学日本一と社会人日本一で争う構図は当時では違和感はありませんでした。
また、ラグビー協会においてもこうした大学(伝統校)のOBが中心的役割を担ってきており、1990年あたりまでは日本代表の監督も強豪校の監督が歴任していました。
1980年代ラグビーはとても人気があり、早明戦は毎年国立競技場を満員にしていました。しかしこれに比べて社会人大会の観客は寂しいものがありました。すでに社会人チームの方が学生よりも強くなりだしたころですが、人気は相変わらず大学ラグビーでした。大学選手権は準決勝から国立競技場でしたが、社会人チームが国立競技場でプレーできるのは日本選手権しかありませんでした。その後、ラグビー人気は凋落していきますが、それでも早明戦や早慶戦など伝統の一戦にはOBを含め今でも多くの人が集まります。それは実力でははるかに上回るトップリーグの観客数を凌ぐほどです。
さて、海外に目を向けると、ラグビーが盛んな英国やNZ、豪州などは地域のクラブがベースになっています。年齢や職業もさまざまな人たちが地元のクラブに入ってラグビーをプレーします。週末には試合があって、日本のように1本目にならないと試合には出られない、といったことはありません。チームはクラブで一つではなく、年齢やレベルによって編成されるので、自分の実力にあったチームで洩れなく試合を楽しむことができます。うまくなれば上のレベルのチームに上がっていくだけです。そのクラブでトップレベルになれば、地域の代表(クラブ選抜)になり、更に上がっていけば州代表、そして国の代表と登っていきます。現在の日本ではサッカーがこのような組織体制になっていると思いますが、海外では大昔(アマチュア時代)からこのシステムとなっており、大学チームも一クラブチームの位置づけです。
体格差だけでなく、このようなラグビー文化(育成システム)の違いもあって、日本のチームはなかなか海外の強豪には勝てない日々が続きました。最近日本のラグビー界もようやく日本代表を頂点とするピラミッド型の育成システムを作り上げる方向で改革を進め、その成果もみられるようになってきていますが、今はトップリーグには大学卒(ラグビー経験者)ばかりで、大学がトップリーガーの養成機関の位置づけのようになってしまっています。20歳も過ぎれば体もできている選手も多く、海外ではトップレベルのクラブリーグで活躍している選手も数多くいます。それが日本ではまず大学レベルでプレーをして、トップリーグに入って認められてからでないとそのような機会がなかなかもてない状況です。
大学に籍をおきながらトップリーグ(パナソニック)の試合に出場した山沢選手のような選手がもっと多くでてくる環境を期待したいものです。